着物をきた女の子のお人形「市松人形」。
お雛様の時期になると百貨店や人形専門店でも販売がはじまります。
今回はその市松人形についてのお話をしたいと思います
この記事では、
市松人形が気になってきている方が、ざっくり読んでも理解できるように書きました。
そんなに難しいことは書いていないので、興味ができたら書籍を買って市松人形の深みにハマるのも良いでしょう(笑)
市松人形とは
江戸時代中期の歌舞伎役者
「佐野川市松(さのがわいちまつ)1722年-1762年 」
の舞台の姿をお人形にしたとされています。
女形(歌舞伎において女性を演じる男性の役者)であって、容姿が良かったということで、
人形にしても綺麗であったことという事です。
現代で例えれば、「人気の男性アイドルのフィギュアを作ったらバカ売れしたということ」
なんでしょうけども、最初に作った人はなかなかに鋭い人だったのだろうと思います(笑)
写楽が描いた三代目の佐野川市松の絵などは残っているようですが、
実際にその佐野川市松を模した市松人形は残ってはいないようです。
(あるのかな?あれば見てみたいです)
何のためのお人形なのか
ではこの人形はだれが何のために買ったのでしょう。
当時は、女性の佐野川市松ファンが購入したと考えられます。
着せ替え人形という位置づけで「玩具」として購入されていたといわれています。
こういった商品の傾向として、最初は価格も高くて良い物が作られたと考えられますが、
次第に低所得層でも購入できるような安価で単純な作りのものを作るメーカーも現れ、
着せ替え用の衣装専門のメーカーも現れ、
お顔の種類も増え変更可能にし、
次第に利幅が見込めるように素材や技術の高い最高級品の人形を作る作家が現れ、
ピンからキリまでの品ぞろえになっていったと想像できます。
そして、時は流れて現代です。
正直なところ、地域や考え方によっても多少の違いがあるので個人的には歯切れが悪い回答になります…
いくつかの役割を紹介します。
1) 着せ替え玩具人形という役割
役割というかこれはもう、最初からの意味合いのままですね。そうやって遊んでいたということ。
ただし、作りや素材から言ってどうやっても高級品なわけです。
こういった着せ替えをして妄想でお話したりする「遊び」はお金持ちの奥様・お嬢様のものでした。
そして、現在は市松人形の魅力にはまってしまった愛好家の遊びなのだと思います。
現代の消耗・消費の世界ではなく、
一つ一つを大切に作り、修理して、という世界のすばらしさは、知識の浅い私でも共感できます。
2)父方のご実家が送る厄受人形、もしくは市松人形自体が厄受人形
雛人形は一般的に「母方の実家」が用意し送るものです。
(なぜかというのは所説あるためまた別の機会にお話ししますが)
そうなると、父方の実家としては、お祝いを送りたいが雛人形はだめだからということで、
この市松人形を「厄受人形」として送り雛人形と一緒に飾るという形になったという事です。
が、正直、こういうパターンというのはあまり歴史的な意味合いや風習やしきたりという意味合いが薄いと思っています。
そもそも、18世紀ころに生まれた人形遊びの商材が、厄受人形になったいきさつなんかはちょっと不明です。
以下のサイトに面白い記載があります。
市松人形館
市松人形がいっきに有名になったのは
昭和2年に「日本のお雛祭りにいっしょ飾って下さい」とアメリカから送られてきた友情人形12739体のお礼に、
市松人形58体をアメリカの各都市におくったことがきっかけでした。
対立を深め大戦へとひた走る両国関係を憂えた両国の一般市民が中心になって進められ時の文部省や経済界なども参加した一大事業でした。
結果としてその想いはむくわれることはありませんでしたが、このときアメリカに贈る市松人形の一大コンテストがおこなわれました。
・「雛人形と一緒に飾ってね」とアメリカからアメリカ製人形が届いた事
・友情人形12739体に対し市松人形58体を送った事
・その58体の市松人形はコンテストを勝ち抜いた精鋭であった事
という内容です。
このイベントは本当に大きな一大イベントであったようで、当時は日米親善の大きな意義があったようです。
昭和2年1927年3月に「青い目の人形歓迎会」があり、1万2千の人形は全国各地の幼稚園や小学校に届けられたとのこと。
そしてその年の11月に答礼人形として58体の市松人形をアメリカへ贈りました。
これらは、吉徳大光のサイトで読むことができます。
そして、このインベントが市松人形の地位を押し上げました。
一般庶民に普及し、嫁ぐ娘に花嫁道具のように持たせました。
職人も増え、大量制作され、衣装もひときわ豪華になっていきました。
抱っこしたりしていた身近な人形が、鑑賞用・贈答用になっていきました。
3)市松人形の販路開拓としての新たな意味付け
これは個人的な考えですが、市松人形に新しい価値を与え、新しい市場を広げたという事です。
着せ替え人形・玩具人形としての存在理由だけでは生き残りに耐えなかったかもしれません。
しかし、この一大イベントによって市松人形の認知度があがり、需要(消費者)が増え、供給(職人)も増えました。
これを当時の人形業界は、雛人形の文化に寄せて販路を開拓したのではないかと思っています。
人形の職人はつながっていて、市松人形の作家はどこかで雛人形の仕事もしていたはずです。
そして制作技術についても共通する部分は多く、市松人形の文化を途絶えさせないように雛人形に迎合させていったと思います。
このあたりは、昔の話になるので知っている人に出会うことで真実がつかめるのだと思いますが、今現在私の人脈では測りかねる部分です。
つくり・品質の違いによる価格差
どんな商品でもそうですが、
大衆向けに低価格の商品が無ければ市場は広がらず流行らないし、
セレブ向けの高級品が無ければ利幅が薄く取扱店は増えません。
よって過去には、
作業工程を減らし素材も安価な代替品で制作した商品から、
球体関節までつくりこんで素材にも厳選された正絹を使うなどした最高級品まで作られてきました。
ただし、現在は消費者・需要・生産者・供給・市場のすべてが縮小しており、種類が豊富とはいいがたい状況です。
私たちが業務で取り扱っているのは無名作家の安価なタイプが数種類と、有名作家の中~上級のものが数種類です。
ほとんどが受注生産となっていることから、たくさんの実物を見てじっくり選ぶというよりかは、
多少の違いがある似たような種類(大量の過去の在庫品)から選ぶというような選び方になるかと思います。
いくつかご紹介できますのでここで写真を公開したいと思います。
<作家:小出松寿>
小出松寿は大阪の人形工房です。綺麗で手頃な価格帯での市松人形から、こだわりの逸品まで制作しています。
こちらは、手頃な価格帯の市松人形です。おかっぱではないあたりが近代的ですね。
松寿についてはこちら
松寿ではモダンな市松人形も制作しています。
イタリアやフランスの生地にスワロフスキーを使って幻想的な髪飾りを付けたシリーズです。
このシリーズには結構思い出があります。
若い女性が何度も何日も見に来て、最後には買って帰ったということがあります。
また、海外のお客様へ贈りたいからということでもっと派手派手な子を選んだこともありました。
<作家:伊藤草園 頭師:味岡映水>
こちらは、雛人形作家でもある小倉草園の作で、銘を伊藤としています。
そしてお顔なのですが、こちらのほうが業界では有名ですね。味岡映水という頭師さんの作ったお顔です。
市松人形らしい作りです。らしいとはなんぞやって話ですけど(笑)
お顔は「桐塑胡粉仕上げ」といって、桐の粉と糊の粘土から作る伝統的な工法で作られています。
人形のお顔は現在は石膏で型通りに出来上がるのが一般的ですが、桐塑では一つ一つが手作りとなり風合いや味わいという数値では測れない定性的な作品となります。
また衣装も江戸時代や明治時代の古布を使った着物になっており、
このあたりが高価格になる所以でもあります。
令和、これからの時代における市松人形の役割
以前書いた「天児(あまがつ)」と「這子(ほうこ)」でも書きましたが、
個人的には、現代においての特定の知識層における伝統的な信仰の一つになるのかなと思っています。
着せ替え人形としてほしいという方もごく稀におられるかもしれませんし、
父方の親族であり孫娘の初節句に用意したいという方もまだおられると思います。
しかし、すでに一般消費者向けに余裕をもって生産されるという状況ではなく、
稀にどうしても欲しいという方にむけて紹介したり、オーダーメイドで作ったりするという販路が残っていくのだと思います。
ただ、生産者がいつまでもいるということはありませんので、十年後は明るいと思っていません。
私自身、小さなお店で販売をしていましたが、1シーズンで10体弱の市松が売れた時期が2015年前後にありました。
小さなお店で一人の販売員が売る市松人形として10体弱というのは多いと思います。
作家さんになんども追加注文して最後はお客様にもお届けを待ってもらうくらいでした。
しかし、次の年からパタッと売れなくなりました。
そういうことがあるのです。ある商品の時代の終わりにパパっと盛大に花開き散るという事があるのです。
市松人形は厄受や着せ替え人形としての役割を終え、
文化的・技術的な保存という役割にシフトしていっています。
ただし、過去にあったような、市場や販路、価値の再定義が起こればまた変わると思いますが、継手もおらず衰退産業として見られる状態ではむずかしいかもしれません。